2015年3月18日水曜日

APU生が世界をオモシロくするためには

はじめに
 けんぞーさんにこの話をいただいた時、「こんなに何もない自分が何か書けるんだろうか」と思った。「THE APU生」になるべくして挫折し、どんどん成長していく先輩や同級生、後輩たちを後ろでうずくまって見て、自信を失っていたこの自分が、何か書けるんだろうか、何を伝えられるんだろうかと思った。むしろこうして書き始めた今でも思っている。でも、こんな奴もAPUにはいるし、もしかしたら、こんな奴ばっかりかもしれない。ただ、これだけは言っておきたい。この文集を読んでもあなたは何も変わらないし、何も得られない。単に、これから読む一人の人生があなたと少し違って、少し同じなだけで、それ以上でもそれ以下でもないし、誰かの何かが変わるだろうかと期待もしていない。だけど、少しの勇気を与えられたら、とちょっぴり思いながら綴る。


   3人の父、1人の母
試合開始早々はジャブで距離を取るものだけど、全力の右ストレートで。
自分の物語を語る前に言っておきたいこと、それは、僕には3人の父がいること。決して多夫一妻制の女尊男卑家庭に育ったわけではない。まあ、離婚数が高くなってきたこのご時世よくあることで、母がバツ2で、今は事実婚。しかし、いくら自由恋愛の世の中とは言え、最初の父は京大卒で準国家公務員のエリート、2人目の父は15歳下のイケメンニート、そして3人目の父は16歳から約25年間ヤクザだった中学時代の同級生をパートナーに選ぶのは僕の母くらいだろう。これが、自分にとっての原体験になる。

   環境の変化の中で
大阪府堺市で生まれ、3ヶ月後に山口県下関市、2歳から埼玉県越谷市、4歳から静岡県沼津市、小学校1年生から3年生まで埼玉県草加市、4年生から5年生まで埼玉県吉川市、6年生から高校2年生までは神奈川県川崎市、高校2年生途中から東京都江東区、大学は大分県で、休学してカナダのトロント(トロントの中で2回引越し)。10ヶ所の地を巡り、父親も2回代わり、取り繕ってどうにか生きるしかなかった。嫌われないよう、なんとか好かれるよう、人の言うことに「イエス」というしか生きる方法がなかった。幼少の頃から、自分の中で「絶対」が存在しなかった。どんなに仲良くなった友達も、いずれは離れてしまうし、父親だって変わっていく。そして、ついに高校生の時に、自分の人生に絶望してしまった。学校もあまり行かなくなった。「自分の人生はなんて儚く、なんてつまらないんだ。当たり前なんてくそくらえ。」良い大学に入る、良い会社に入る、良い給料をもらう、家族と幸せに過ごす、子供ができる、孫ができる、ひ孫ができて、家族に見守られながら死んでいく。そんな人生、絶対嫌だ。なんて面白くないんだ。そうして、当たり前や世の中の常識をとことん嫌った。塾や英会話教室がある時間に、家の近くの公園でいろんなことに考えを巡らせ、たそがれることだけが唯一、人生の自由を感じる時だった。


(左:母、真ん中:僕、右:こーちゃん(3人目の父)
   APUとの出会い
受験を1年後に控えた頃、親(2人目の父と)が離婚した。そのため、引越しをすることになった。高校と家は1時間45分かかる距離にあって、その真ん中らへんに位置する渋谷か表参道にある塾に行こうと決めた。その塾は、「早稲田塾」という首都圏展開の割と大手の塾で、AO推薦に強くて、面白そうなことをやっているみたいだった。志望校を聞かれた時、当たり前が嫌いなくせに、社会的に良いとされる早稲田大学政治経済学部に入りたいと言った。新聞記者になりたかったからだ。しかし、早稲田塾のAO対策講座を受けるにつれ、自分の原体験について、思っていること、考えていることがどんどん掘り起こされていった。結局、社会に反抗していたはずの自分は、本当のところ、もっと社会の役に立ちたい、何かの為に身を粉にしても良いと思っている超良い奴だった。(笑うところ)だんだんそういうことがわかってきた頃、その後の人生を大きく変える人に出会った。立命館アジア太平洋大学学長(当時)のモンテ・カセムさんが、早稲田塾に講演しにきた。それが、人生の分岐点になった。それまで人生に絶望していていて、家でもあまり家族と話そうとしなかった人間が、講演が終わった後、3億円が当たったかのようなテンションで親の元に帰ってきて、「俺、APUに行く!!!!」と叫ぶように言った。あんなにアホっぽい母親の顔を今後見ることはないだろう。口をポカーンと開け、「APUってなに?」そりゃそうだ。知るわけがない。「立命館アジア太平洋大学、略してAPU!大分にある大学で、グローバルな大学なんだって!」さっき習った言葉を意味もわからないまま使って、親がわかるわけがない。でも、母親は、ようやく息子が希望を持とうとしている、と気づいたのだろう。「なんやようわからんけど、行ってきたらええ。よかったなあ、行きたい大学が決まって!」その日の晩飯は、いつもよりちょっと豪華だった。

④1回生:サークルを立ち上げる
 大学に無事合格し、様々な事前プログラムに参加していた僕は友達いっぱい、そして彼女もできて、順風満帆!最高の大学生活が「待っている!」と、期待を胸に、意気揚々と大学に進んだ。「さあ、何をしよう、まずは学生団体でも作るか、そうだな、名前は“Made In APU”にしよう。APUの良さを、学生側から世界へ発信する。そんなウェブサイトを作ろう。高校時代、どれだけAPUの情報を知りたかったか。じゃあメンバーを集めよう。よし、20人集まった。さあ、、、どうしたらいいんだろう、、、」目的地は決まっていたのに、運転の仕方がわからなかった。どうやってエンジンをかけたらいいか、ハンドルの動かし方は、ブレーキのかけ方は。わからない、何もわからない。結局、”Made In APU”は幻のサークルとなった。周りから冷たい目で見られ、バカにされているように思えた。「あいつ口だけじゃん」「なんだ、やめちゃったんだ」そんな声が聞こえてくるような気がした。またまた、絶望の谷底に落とされた。自分はダメだ。何もできない。大人しくしていよう。その一方で、親友のきのぴは自分でサークル(Table For Two)を立ち上げ、有言実行、どんどん成功していた。彼と比べれば比べるほど、自分の凡人さ、いや凡人以下の能力が露わになっていった。「もう、逃げたい。」希望で満ちていたはずだったのに、また、現実から逃げてしまった。1回生の秋セメスターで取れた単位はたった2単位だった。
  
⑤2回生:茂木さんをAPUに呼ぶ
講演後、茂木さんと食事会にて
 春になるとなぜか元気になる天野。心機一転。過去の自分からおさらばだ!元気良く学校に通って、友達を作る、友達と一緒に授業を受ける、彼女と遊ぶ、ダブルダッチサークルに行って仲間たちと練習をする、当たり前を当たり前にこなすこと、それこそが自信を持つ方法なのだとようやく気づき始めた。大学生活が少しずつ前進していく中で、一冊の本に出会った。「世界一自由な脳の作り方」。脳科学者の茂木健一郎さんの著書だ。その中の一文に「APUには期待している」という一文を見つけた。動かずにはいられなかった。もしかしたら茂木さんを呼んだらAPUの何かが変わるかもしれない。Twitterで茂木さんに「APU来てください!」と勢いで言った。「呼んでくれればいつでも行くよ!」快諾だった。そこから、Twitterで有志を募り、9人が集まった。平野壮、樹下有斗、稲田杏那、井谷起苗、梶尾武志、長尾加奈惠、三浦沙耶、安達元哉、重光優作。友達だったり、後輩だったり、知らない人だったり。自分が言い出しっぺだったからリーダーを務めたけど、全然リーダーシップがなくてずっと悩んでいた。2、3ヶ月の企画を経て、20111128日、茂木さんがAPUにやってきて、「APU生が世界をオモシロくするためには」という題で講演をしていただいた。730人収容のミレニアムホールに、800人以上の観客。県外の人、学生ではない人、社会人、APUの卒業生、他大学の人、様々な人からの参加希望を断っての講演だった。この時、ようやくわかったことがある。自分は、凡人で、普通の人間だ。茂木さんみたいに知識がいっぱいあったり、社会のおかしいところにぶつかっていったりするような勇気を持ち合わせてもない。そして、周りのメンバーのように賢くもないし、決断に対する勇気がない。ただ、1回生の時と違うのは、結果を残せたということ、わからないながらもやり遂げることができたということ。それは自分にとって大きな財産だった。自分は何もできないポンコツだけど、周りが助けてくれる。「当たり前」から逃げてきたからこそ、「当たり前」のことに触れた時に、心が震えた。でも結局、そんなことに気づいたくせに、普通な自分だからこそ、何か人一倍努力をしなければと思って、難しい本を読もうとしたり、5ページ読んで諦めたり、これからの時代は英語と経済学だ!と経済学を英語で学ぼうとして挫折したり、あんまりやることは変わらなかった。学校に行って授業をしっかり受けて考えを深めればいいのに。また、やってしまった。2回生の秋セメスターは2単位しか取れなかった。2回生が終わって、34単位しか取れない絶望的な状況の中、このままではいけないと思い留学をすることに決めた。理想の自分は、その先にいるだろうか。しかし再び、「何かが変わるのでは」と期待している自分が顔を覗かせていた。

⑥休学:天野、初海外。
Café Treatsの職場の人たちと
 カナダのオンタリオ州トロント市。そこには新しい世界が広がっていた。色彩、建物、におい、右車線の道路、交通機関のシステム、街中から聞こえる音、人々が話す言語、食べる物、人と話すときの距離、価値観、考え方、ファッション、気候、お金の形や数え方。違いに気づいては発見の喜びを得て、どこか自分が変わったような気がした。でも錯覚だった。何も変わりやしない。環境が変わっただけだ。自分は何も変わらない。結局、世界のどこにいようが、その環境にいて満足する奴は、何も変わらない。留学に行って何か変わるだろうかと期待することは、愚の骨頂。「自分はこういうことがしたい」「自分はこうなりたい」という人と、「何か変わるかなあ」と鼻をほじって待っている奴では、その時点で勝負は決まっている。自分は後者で行ったから、交換留学で目標を持って行った人と比べたら月とすっぽん。結局自分から何かを変えないと何も変わりやしない。僕の尊敬するビートたけしが「人生に期待するな」と言っていたのを思い出した。結局、今までの自分は、APUに行ったら、カナダに行ったら何かが変わるかも、と期待して向こうから何かがやってくるのを待っていた。やっとわかった。期待が自分を苦しめていた。誰かが何かを変えてくれるんじゃないかと期待し、動こうとしない自分が自分を苦しめていた。それからというもの、自分で動くようにした。語学学校に3ヶ月行ってクラスも上から2番目までいって、自分で職を探して、レジュメを10店舗くらいに持っていって、住む場所を探して、自分で稼いだお金で生活した。カナダ人と一緒に働くこともできたし、英語もスラスラ出てくるようになった。映画も字幕なしで大体観れるようになったし、スタバで注文時に店員とスモールトークを出来るようにもなった。それからというもの、毎日できることを増やしていった。若い頃は、理想と現実のギャップを思い知るから、悩むのだろう。カナダで一番悩んだ時、父(The First One)に言われた。「理想を温めつつ、ちょっとずつ目の前のことを出来るようにしたらええ。」自分が何もできないのは結局、目の前のこと、当たり前のことから逃げていたからだ。この時からちょっとずつ、自信を取り戻していた。個性やUniquenessというのは、当たり前が出来るという前提の上に成り立っている。嫌だと思っていることにこそ、面白さや成長がある。早く日本に帰りたい、彼女に会いたい、帰る日まであと何日だろう、と残りの日にちを数えては消費していった日々から、あと50日しかない、何をしよう、ここで何が出来るだろう、と考えるようになってから、少しずつ変わっていった。人間、「まだこれだけ時間がある」と考えるより、「あとこれだけしかない」と生きる方が、後で振り返った時に幸せなのかもしれない。マイナス20度のつん裂くような寒さでも毎日5時半に家を出て、カナダ人しかいない職場でも、楽しく働いた。週末はみんなで飲みに行って、彼らについていこうとビールをピッチャー分飲んで道端で吐いたり、終電を逃してタクシーにぼったくられたり、散々だったけど、ひとつひとつが自分にしかない体験だった。人生で初めて自分だけの力で生きた1年だった。

ダブルダッチサークルの仲間たち
⑦3、4回生:単位、就活、サークル、卒論、家庭教師、塾の立ち上げ、彼女
 復学してからの自分は、人が変わったようだった。当たり前を一つずつこなしていく2年間だった。3年付き合った彼女と別れてしまって落ち込んだ時期もあったけど、意志を強く、前に進んでいった。この2年間は、あっという間だった。単位はなんとか取った。就活ではいろんな業界、業種で悩みながらも、自分は教育系に進むべきと考えて2社だけ受け、自分を変えてくれた場所である早稲田塾に行くことにした。サークルでは同期たちと最後のパフォーマンスを披露し、天空祭のオオトリを飾った。卒論はなんとかお笑いについて書き上げた(ダメダメだけど)。お医者さんの子供に英語の家庭教師をして、学年で5番まで押し上げた(長文が出来なかっただけだけれど)。ある塾がプロデュースで、大学生主体の中学生のための塾の立ち上げをして、なんとか1年間運営できた(これでめちゃくちゃ白髪が増えた)。そして、同じ方向を向いて、様々な壁を共に乗り越えていくことのできる彼女もできた。もちろん、いいことばかりではなかったけど、なんとかやってのけた。いろいろとやりすぎて、逆に逃げたくなることばかりだったけど。でも、この2年で、頭の中にあるイメージをどうやって形にすることができるか、ずっと悩んでいたことが、できるようになった気がする。その一方で、自分の悩みからくる創造性が少し失われた気がする。それに関しては、今後の課題だ。
  

さいごに
 「何かを得るためには、何かを失わなければならない。」誰かが言っていた。その通りだと思う。最後に、これを踏まえて一つ言いたい。別になんてことはないことだけど。最近、エネルギー理論というのを発見しまして。(笑)僕を含め、今ここまで読んでくれているあなた、世界中の人々は、1日で使えるエネルギーがある。もちろん人によってエネルギー量は違う。もし僕が100だったらあなたは10かもしれないし、1000かもしれない。でもそのエネルギーを1日でどう使うかが、自分を形成する。1回生の頃、1日で100使える内、50は彼女、45は自分で考えること、5は授業とか課題だった。(その分成績は低かった。)でもその100のエネルギーを持つ自分が、海外に行って英語だけ勉強する環境に身を置けば、そりゃあ英語ができるようになる。ほぼ100のエネルギーを英語に対して使っていたから。もしあなたが今の自分に満足していなかったら、今そうやってスマホやYoutubeに使っているエネルギーを、授業とか難解な本とかに向けよう。まずは3とか4でいい。(ちなみに頭のいい人は省エネだから、30くらいでいろいろやってのけてしまうので、ずるい。羨ましい。)でもこの時に必要なのは、自分を忘れること。禁煙したいと思う人が禁煙できないのは、「禁煙」を意識するからだ。スマホやYoutubeから抜け出せない人は、やめることを意識するからだ。そうじゃない。何かを始めろ。朝早く起きろ。好きな人に告白して玉砕しろ。国際学生に話しかけて「Huh?」とか言われて落ち込め。海外に行って、全然英語上達しないまま帰ってこい。英語ができないなら、できるようになれ。読めもしない新聞を読んで社会をなんとなく掴め。当たり前のことを当たり前にこなせ。人を愛して傷つけ。誰かを傷つけて落ち込め。後のことばっかり考えず、今この瞬間に集中して生きろ。「何かを得るためには、何かを失わなきゃいけない。」自分は思ったより、弱くて、何もできなくて、小さい存在で、つまらない人間だということを認識しろ。そうでないとなりたい自分になれない。それがわかったら、少しずつ、毎日できることを増やしていったらいい。それだけで人間十分だと思う。他人に期待せず、ありありとした自分に向き合うだけで。ただ、わかっていくことが増えていくにつれて人はうまく生きれるようになる。それまで100で生きてた人が30で生きれるようになる。でもそれこそ、つまらない。その次は、世界をオモシロくしてやろう。常にエネルギー100100010000APU生が、エネルギー30で生きている人たちの世界をオモシロくしていこう。当たり前をまずやってのけて、世界をどんどんオモシロくしていこう。世界が変わるのを待っているのは、つまらないから。
左:後輩のゆーすけ、真ん中左:轟先生、真ん中右:僕、右:親友のきのぴ



2015.03.17天野智

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