2015年3月15日日曜日

「みんなと違う」を恐れずに

●みんなと違うこと
 初めの夢は「ミュージカルをやりたい」だった。時は遡り中学入学の時。この学校は中高一貫でエスカレーター式であることを初めに挙げておく。当時演劇というものは周りから奇怪な目で見られていた。私の所属した演劇部も全く同じ目で見られ、やれヲタクの集まりだとか気持ちの悪い集団だとかで常に周りの部活とは距離を置かれていた。「人とは違う」ことはタブーだったのだ。しかし、夏季休暇に思いもよらぬ出会いがあった。USJ。誰もが知る一大テーマパークのある一角に「ユニバーサルモンスターズ ロックンロールショー」というものがあるのだが、これが私を魅了した。音楽や煌びやかな照明に加え、様々な特殊効果の演出が私の心を掻き立てた。キャストも軽快なリズムとトークで周りを一瞬のうちに自身のペースに巻き込んでいる。「これだ。」 休暇を終え、中学高校と舞台表現の道にひた走った。残念ながら、希望のミュージカルは舞台設備上、または役者の不足という事態もあり不可能となってしまったが、約6年間、演劇は続けることはできた。周りが何と言おうと私は自分の好きなことに夢中になって楽しむことができたと思う。今思えば中々幸せな環境だったかもしれない。みんなと違う事をやるというのは決して駄目なことではないのだ。
 そんな中、高校生活ももう終わるころ、英語の教師より大学推薦の話が持ち上がった。「立命館アジア太平洋大学」通称APU。グローバルな環境を生かし、常に日々学生が世界を楽しんでいるというハイスペックなユニバーシティと聞く。さほど私が英語に秀でているわけでもないのに、だ。聞けば実に若い大学で、私に合った非常に面白いものなのだという。一方で勉学にも力を入れているとのことであった。私は期待半分、不安、不満半分の中、APUという未開の土地へ足を踏み入れることにした。なんとも冴えない話ではあるが、これが私とAPUとの出会いだったのである。この出会いが後に私にとって大切な意味をもたらす事を私はまだ知る由もなかったわけだが。

APUという異空間
 高校を涙ながらに卒業し、APハウスという学生寮に住むことになった。隣は中国人。もはや逃げも隠れもできない。なんせ向こうとこちらを隔てるのはわずか5cm程度の厚みの扉のみなのである。さすがは音に聞くAPU。外国人と強制シェアとは恐れ入る。その後彼とは喧嘩もし、笑いもした。(喧嘩7割)自分の意思が伝わりにくい環境は苦痛を伴うものがある。だが、これを読む方々、くれぐれも怖がらずにレッツ コミュニケイト をしてほしい。私がうまくないのだ、コミュニケーション。APUという土地は私たちの常識を180度覆す。そういった意味ではいろんな世界が学べるのだろう。「世界を見に行こう」なんてフレーズもあながち間違ってはいない。今の私であればそれ相応に国際生と楽しめるので、「世界は~」だの「国は~」だので「なるほどね」と理解しようとも思える。だが、当時の私にとってみれば、アウェーであり、楽しさを見出そうとするも言語の壁にぶつかるばかりで前が見えずにいた。日本なのにアウェーという異空間は、私をまず萎縮させた。
 
●劇団「絆」との出会い
 縮こまってても時間の浪費が起きるだけで、自分にはプラスにはならないし、まったく日本人がいないわけではないのだ。アウェーから逃げるように日本人の友人を誘って、気晴らし程度にサークルの案内を頼りにそれぞれのサークルの活動を見て回った。サークルの紹介は私には新鮮だった。実際に国まで行ってボランティアをするサークル、異国の伝統行事を披露するサークル、会議ばかりするサークル。どれもこれもAPUならではかもしれない。それくらい多種多様で様々な色を見せてもらった。そんな中、一つのサークルに目が行った。劇団「絆」。聞けばミュージカル公演を前提に活動するとのことで、サークル選びに時間はかからなかった。サークルの中には個性的で、中学や高校時代、嫌悪されていたいわゆる「みんなとは違う」人達が大勢いたわけで、自分の居場所ができた、そんな気持ちを強く抱いた。おまけにずっとやりたかったものがやれるのだ。こんなに幸せなことはないだろう。プロではないがプロ意識を持って行う舞台活動には私も熱が入ったままで、舞台はこんなに楽しいものなのかと、中高生の時代には無かった感覚が呼び起された。演じているうちに大勢の仲間たちから支持を受け、一躍大役をこなすまでに成長していた自分がそこにはあった。
 数多の先輩や同期からご縁を受けたこの5回目公演だったが、イベントサークルというものは本番が終わると一度「解散」が行われる。劇団「絆」も例外ではなかった。涙ながらの解散が終わると、次に受け継いでいくための儀式を行う。その中で先代代表が真っ先に次代の代表にと声をかけてきた。私は返答には23日を要した。というのも100名ほどの団員を背負ってサークル活動に勤しむわけであり、ついては多大なる負荷と責任を負う。すべて手探りな中で、どう設立していけば良いのか、自分には皆目見当もつかなかったためだ。しかし一方で私には一つの思いがあった。「このまま誰も名乗りを上げなければ劇団はどうなるのか」自分の中では非常に華やかな思い出を創ってくれた劇団だ。そう易々と無くして良いわけがない。私が次代6回公演の父となってみせる。そう思った時には既に先代に引き受ける約束をしていた。

●劇団「絆」6th

 コアとなるメンバー集めから始まった代表の仕事。前途は多難かに思えたが、5回目からの知名度が功を奏したのか、予定の内にコアメンバー集めは終了した。ただ、脚本や演出といった演劇精通者のポジションを埋めるメンバーは出ず、結果として経験もある私が一任することとなった。そうするしかなかったのだ。キャストのオーディションや団員集め、OBOGも手伝って、劇団としての形は整っていったが私の業務はキャパシティオーバーに近いこともあり、コアメンバーは常に私を気遣ってくれた。私のペースで進めろと、そう言うのだ。申し訳ないと思うとともに、もっと良いものにしなくてはと闘志は沸き立つ一方だった。活動を進める中で、度々問題は出るものの、柔軟に解決することができた。というのも全団員のモチベーションが極めて高く、私にもその影響か物事をはっきりと判断し、取捨選択する力が生まれたためだ。そうやって互いに互いが協力して、一つのサークルないしは企画は出来上がっていく。そのプロセスは極めて美しいものだと改めて代表職のポジションから感じることができた。本番終了後、終わってみればみんなが笑顔で、みんなが泣いていた。口々に「ありがとう」とか「やっぱり入ってよかった」とか、言うわけだ、泣きながら。握手したり、抱き合ったり。まるで夜空の花火のように、この日劇団「絆」6thは有終の美をもって、解散した。
●そして東京へ
 解散しても尚、演技のアドバイスや実際に舞台に立ったりで、私の演者生活は終わらなかった。次第にプロを目指すようになり、いつしか「プロ役者になりたい」という夢が出来上がっていた。私の第二の夢だ。そんな考えが常々自分の脳裏を駆け巡っている中で、今度は両親から面白い提案を受けた。「プロダクションのオーディションを受けてみればいい」。私は両親がそんなことを口にするとは思っていなかったため、興奮と疑問と不安が入り混じったなんとも不可思議な感覚に襲われた。ただ、「本物の役者」になりたいという思いは強かったため、その不可思議な感覚を手土産にしつつ、単身会場に乗り込むこととした。オーディションでは私よりも若かったり、だいぶ年上だったり、やけに強面でコンプレックス抱えてそうな人だったりがあたり一面に受けに来ていた。一人のプロになる機会を与えられた場に、ピリピリとした緊張感も手伝って、自分を見失う、そんな感覚さえ覚え、オーディションに臨むこととなった。
 しかし、結果は大変幸運なことに、合格。この時から東京行きを決意し始めた。レッスンには通っていたものの、居ても立ってもいられなかった。東京では情報がいち早く集まる上に、ドラマや舞台の現場は常に都心で行われるもの。役者に圧倒的に有利なのである。なにより大分から東京にレッスンを受けるためだけに通うなんていかに非効率的なものか。そんなこんなで事情を世話になった劇団の仲間たちに話し、親のサポートを受け、仲間の期待を背に、一路東京へと向かった。

●役者への恐怖心
 東京に移り住み数週後、早速ドラマの案件が届いた。大手キー局のドラマだけに、名だたる面々が揃う。そんな第一線で活躍している方と直にお会いし、仕事をするのだから、本当に気は抜けない。寧ろ負かしてやりたいと思う程だ。だが作品というのはそんな力比べで成り立つものではなく、様々な役がバランスを保ってこそ成立する。非常に繊細かつシビアなものだ。故に作品作りは面白いとされるのかもしれない。
 あるとき、俳優の六平直政(むさかなおまさ)さん、女優、いとうまいこさんと現場でご一緒した際に、こんな話をした。
 「役者をやるならば、自殺を覚悟しろ。」(六平直政 談)
第一線、しかも大ベテランの俳優の言葉だ、非常に重たい。私にはそのような覚悟は持てなかった。恐ろしかった。いくら好きといえど、死ぬか、運よく売れるかを天秤にかけるなどリスキーで無理な話だし、想像し得ない。しかし、彼のこれまでの背景を察するに、その言葉は槍となって、未だ私の心に突き刺さっている。穏やかな口調ながら厳しい指摘に、現場の洗礼を浴びたこの記憶は、私の生涯の宝物である。(写真参照)
一方、事務所とは別の所でワークショップを受けてみたりもした。AKBMVに関わった監督さんの元で行われたものだったが、内容が非常にストイックで、別にAVなどではないのだが、その場で相手女性を押し倒し、ヤれ(無論演技として)というのだ。予め設定や台本を渡されるのだが、いつにしても内容は重たく、普段演技をすることがないような内容のもので密度が濃い。事務所のレッスンとは比較ができない、それほどのものだった。この享受は役者としては非常に幸運なことだと思う。演技の幅を広げられる上に、自信がつく。こんな有意義な時間をもたらすワークショップはそうそうお目にかかれないだろう。だが、同時に私は恐怖した。冒頭の女性を押し倒す演技もそうだが、そういった演技とリアルの区別がつかなくなってしまう危険性があるのではないかと。感情をうまくコントロールできるようにならなければ、夢は夢のままでしかないのではないかと。役者に対して好奇心と恐怖心の板挟みに逢い、痛烈な衝撃を食らった。私の考えがいかに甘かったか、その場に打ちのめされるような感覚を味わった。そう、私は「プロ役者になりたい」はずなのに。

●ディズニーのお兄さん
 この顔でお兄さんは無理があるか。いやいや立派なお兄さんだったと思いたい。事務所で役者を勤める傍ら、無論お金も掛かるので稼がなくてはならないのだが、冊子を手に取ってまず最初に目に飛び込んできたのはディズニーキャストの面接というものだった。幸いにも接客をするのは嫌いではなく、むしろ好きで得意な部類であったため、面白そうな内容も相まって、稼ぎ先として決めるのには時間はかからなかった。とんとん拍子に事は進み、なんともすんなり入社を遂げた。だが、そもそもディズニーランドというものにそれまで訪れた事がなかったため、そこからは右も左もわからない、手慣れた「手さぐり」の状態が続く。巨大テーマパークに無知独り、自分で聞いて、知って、工夫しての毎日であった。ディズニーのアルバイト員は周知のとおりキャストと呼ばれるわけだが、私の本業である役者(キャスト)とは全く異なる趣をもつ。それが意外に楽しいのである。人の喜びを身近に感じ、あたかもそれが自身の喜びであるかのような感覚を覚える。加えてその喜びを運ぶ事が自分しかできないとなれば、非日常の世界観も手伝って、感覚はまさに夢を見るようなものとなる。

とまあ大げさに話してはいるが、人それぞれのとらえ方があるので、この話はご自身でなんとでもとらえて頂きたい。さて、話を戻そう。私は毎日2つの役を以て生活をしていたわけだが、この役者とディズニーキャストの両立は長くは続かなかった。特に役者は親のサポートありきで行っていたこともあり、親のサポートが苦しくなるや否や、途端に勢いは衰え、結果、事務所を退所せざるを得なくなった。これには私自身、応援してくれた劇団員の仲間たちの期待に応えられなかったという思いが強く残り、ショックを隠せずにいたが、他には出来ない、いい経験をさせてもらったと考えようとその劇団員たちの励ましの言葉をもらったこともあり、立ち直ることが出来た。離れていても常に繋がっている、本当にありがたかった。ここから私のディズニーのお兄さん一本での生活が始まった。

●自分の顧客を創る
 いつものように夢の国でいそいそと給仕をしていると、時間など経つのはあっという間なもので、ディズニーランドは30周年という記念を迎えることとなる。それだけ続くのも顧客あってということで、30周年(ハピネスイヤーと言っていた)にちなみ、ポジションに「ハピネス担当」というものが創設された。これは家族やカップルなど、普段パークでみんなで記念写真を撮ることが出来ない人のために、積極的に記念写真をお撮りする、そんなポジションだ。写真を撮るとなれば必ず誰かが犠牲になったり、自撮りでも上手く撮れなかったりするもので、中々、面白い事をするな、と私もにやにやしていた。夏季を迎え、パークは七夕のシーズンへ。私の属する和食レストランでもムードは七夕一色。浴衣を着てパークに来る人も増え、ハピネスポジションも盛り上がりを見せる。しかし、ここで私には一つ不満があった。発想は面白いポジションだが、いそいそと声をかけて、「よければ記念にお写真をお撮りします!」なんて写真を撮って、それでハピネスといえるのかと。ならないことはないだろうが、もっと何かできないかと考え、上司に提案を行った。それは「誕生日や何らかの記念を以ていらっしゃったゲストには、サプライズで私は似顔絵をお出ししたい。」というものだ。上司はその提案を快く受け入れてくれた。しかしゲストの邪魔にならないように、かつサプライズで渡すにはどうしたものか。しかもゲストは一人だけではないので、時間はかけられない。考えていた以上にシビアだった。が、やりたいことはやるべきだと意を決し、サプライズに取り組んだ。お冷を回るふりをして、サプライズの対象のゲストの特徴をつかみ、そのままお会計伝票に挟む。こうすることでゲストにばれる危険を防ぐことが出来るし、何より、伝票に挟めば、お会計まで大概の人は開けないのでサプライズにもなる。そもそも開けるとそこにはあるはずのないものが出てくるのだから、どう転んでもサプライズになる。結果は大当たりだった。レジの担当が私の所によってきては成果を報告してくれる。いつしかそれは名物となり、私がポジションを担当する毎に、周りのキャストもサプライズを見に来るまでになった。今でも覚えているが、7月4日の七夕イベントの日、景色のいい窓際で食事をすることとなったお2人様は七夕に合わせ浴衣でお目見えだった。普段はなかなか着ることのない浴衣だからと私は意気揚揚に写真をお撮りしたのだが、どうやっても逆光で上手く撮れない。ゲストもありがとうございますとは言うものの、心なしか少し表情が曇って見えた。それではハピネスの名折れだと、上手く撮れなかったお詫びに、お二方の似顔絵をプレゼントしてみることにした。すると、2人は感極まって帰りがけ、先ほどのお礼にと、本来はパークで使う専用の短冊をわざわざ私のためのメッセージカードとして手渡してくれたのだ。
また別の日、2月22日。この日はとある一家のお子様がバースデーだった。私にとって はもはやいつも通りのことで、似顔絵をそのお子様に向けてサプライズで用意するわけだが、そのような経験は今まで無く、非常に新鮮だったと一家のお母様が涙をボロボロ流しながら仰るわけだ。どこかで私が描いているのを見られたのだろう。「この子の似顔絵、描いてくださったんですよね?なんだかお顔を拝見したら、涙が止まらなくなって・・・・。」今でも鮮明に覚えている。
そこまでのゲストの幸せを創れたのならば、少々誇っても罰は当たらないだろうか。後日、私の退職後、オリエンタルランドから、22日のゲストから私宛に手紙が届いているので送りたいという話を頂いた。無論頂いたし、何よりそのゲストとは今もお手紙のやり取りは続いている。(写真参照)


もはや顧客と店員の関係を超越したこの関係の創造に、私はサービスの真髄を見出すことが出来た。からは、「サービス」というものを枠に囚われずに学んでゆきたいと真剣に思い、自身の表現=十人十色の無限の可能性としてこれより就く会社で己を磨いていくつもりだ。

●休学、復学を経て
 別府に帰ってきたものの、既に顔見知りは殆ど卒業しており、またAPUはアウェーとした。だが不思議なことに、ちっとも怖くないのだ。その環境が。ディズニーで共に仕事をした仲間も、劇団の仲間もまだまだ付いていてくれる。時には連絡を取って飲みに行ってみたり、わざわざ東京から旅行に来た子もいたりと、恵まれた環境の中、最後の4年目を過ごすことができた。それは、みんな「太一が太一だから」と言ってくれるのだが、私は「みんなこそ、みんなのままでいてくれるから安心して委ねられる」と返したい。常々思うが、私は人間に恵まれている。遠く離れていても、想うことができる。それをこの休学で貴重な経験とともに見出せたのではないかなと思う。「友」は「宝」だ。

APU生であるために
 ここまでグチグチダラダラと書き綴ってきたが、どんな箇所においても、「人との繋がり」が私の人生にとってのキーとなっていると思う。「APUは国際性豊かでうんたらかんたら~」も売りにしているから別に悪くはないが、何より大切にしてほしいのは「個人のコミュニケーションの能力」だと、私は思う。この大学は、国際性があるからこそ、コミュニケーションが必要とされる。結果として、そのコミュニケーションはあなたにとって大切な友人や恋人、家族を生み出す「繋がり」の一端となるだろう。
 「みんなと違う」大学で「みんなと違う」あなたのコミュニケーションは、きっと「みんなと違う」世界を創り出す。「こうあるべき」という枠にとらわれず、あなたならではの経験を大切にして、あなただけのAPUライフを楽しむこと、それがAPU生であるための必須条件だと、私は思う!
ここまで読んでくれたあなたに感謝。どうもありがとう。



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